徒然狸 -タヌキの日記-

マスク越しの、季節のにおい……。

約束について

その人と出会ったのは高校の授業だった。
うちの高校は三年次に選択科目が色々選べて、完全理系だったおいらはそのひとつに「理科実験」ってのを履修した。
その人が講師だった。
高校の先生じゃなく、外部の教育系企業から来ていた。

若い女性だ。
せんせーの専門は物理学。
おいらは化学畑で物理学なんてほとんど触れたことがなかったんだけど、せんせーの授業は超実践的で奇想天外で、あっというまに引き込まれた。
あるときなんか、授業開始と同時にストロー100本とテープ1巻き、そして生卵が1つ配布された。
「いまから皆さんに、卵ケースを作ってもらいます。
 卵ケースの材料はストローとテープだけ。テープはタマゴに貼り付けてはいけません。
 出来上がった卵ケースに卵を入れて、3階から地上に落としてください。
 卵が割れなかった人だけ点数(出席点)を与えます」
アホほど興奮した。

高校卒業・大学進学と同時に、せんせーの所属する企業でアルバイトさせてもらった。
内容は、子供向けの科学実験教室とか科学ショーのサポート。
実験に必要な資材の買い出し、下ごしらえ(工作)、そして本番のサポート。
実験教室とかショーは、日本全国から依頼を受ける。
だからバイトなのに泊りがけの出張が頻繁にあった。
北は北海道から、南は広島・高知まで全国を渡り歩いた。
東北の最果てみたいな漁村にも行ったし、広島の地下街だの東京の公園だのの特設ステージとか、
小中学校の体育館とか科学館とか、ほんと色んなところで教室やショーをした。
イベントが立て込んでるときは、一つのイベントを終えたらあとは他のスタッフに任せて、
せんせーと二人で次のイベント地に旅立ったりとか。
ほとんど旅芸人だ。
出張先で時間が空いたら観光とかもいっぱい行った。
いちどだけだが、仕事とは関係ない旅行に行ったこともある。

ショーのサポートと言っても、おいらもいろいろ役割が与えられた。
きぐるみを着て楽器を演奏したり、飽和食塩水を頭からかぶるピエロ役になったり、
せんせーの「いじわる」で実験に失敗して子どもたちを笑わせたり、
場面転換の時間稼ぎにパントマイムをやったり、講師が複数必要なイベントではおいらもひとりで講師をやったり。
技術的なところでは危険物や高圧ガスを任されたり。
大舞台の音響制御やスクリーンに映す映像出力とか、本当にいろいろなことをさせてくれた。
テレビやラジオにも何度も出演した。
みんな知ってる有名番組に出て、有名な芸能人にもたくさんあった。
数年前も正月特番に出たから、たぶんおいらの顔を見た人もいるはず。

時間がちょっと戻って
二十歳になってからは打ち上げでせんせーとお酒を飲むのが楽しみになった。
打ち上げ以外でも飲みに行って、その後は当たり前のように二人でカラオケ。
ふだんはザ・仕事のできる女だったけど、お酒飲むとはちゃけて、飲みすぎて踊りだしたりして。
べろんべろんになったせんせーを担いで自宅に送り届けたりとか。
本当に楽しかったんだ。
ほんと、お仕着せのリア充を鼻で笑っちゃうくらい素敵な年月を過ごした。
いつしか、おいらはせんせーが東京に出てきてから一番古い友人になっていたらしい。

そんなこんなを、結局大学を卒業して大学院に進んで称号を頂いて、就職してからもずっと続けてきた。
就職してからは副業不可だったから、ボランティアって形で。
せんせーと出会ってから、まる20年。
わお。

でも少し前から急にせんせーからの連絡がすくなくなって。
あるとき、LINEメッセージで胃が凍りついた。

「体調悪くて病院行ったら、癌なんだって。びっくりだよね^^;」

メッセージは、本当にこんな文面だった。
死の恐怖に直面してなお、誰かを思いやれる、優しくて強い人だったんだ。

そこからせんせーの闘病生活が始まった。
抗がん剤治療のときは入院しなきゃいけなくて、でも病院食が美味しくないんだよねぇ・・・
だから病室でも作れるレトルトみたいなの探して、これどうよ? お、いいね~
なんども入退院を繰り返していた。

それでも寝たきりみたいなのじゃなくて、調子のいいときは普通に仕事をしてるらしかった。
電話でも話した。
その企業の手伝いでせんせーの家の直ぐそばまで行って、だけどたまたませんせーの調子が悪くて会えないこともあった。
せんせーは電話で「会いたいなぁ・・・」って言ってくれて
おいらは「近くにいるんだから、またすぐ会えますよ」って返した。
元気づけるつもりだったんだ。
このときのおいらは、本当にアホだった。
抗がん剤が効けば、以前のようにはいかなくても、また一緒にステージに立てるんだって、ほんとうにそう思ってた。

しばらくのち、せんせーが緩和ケアに入るという連絡を受けた。
つまり、抗がん剤が効かなかったんだ。
抗がん剤のせいであんなにも苦しんでたのに。
お見舞いに行きたかったが、コロナ云々で病院は面会謝絶。
コロナのせいで死に目に会えなかったっていうニュースが思い出された。
このとき、本気でコロナを恨んだ。
世界が死にゆくものに見えた。

ある日、先生の調子が悪いっていう連絡を受けた。
おいらにはなにもできることがなくて。
そこからは一瞬だった。
4月26日、メールが届いた。
「先生が亡くなりました」
おいらの部屋には、せんせーのサイン色紙が飾ってある。
2007年の日付で、ペンギンのイラストが入ったかわいいやつだ。
それが、形見になった瞬間だった。

せんせーとは2つの約束があった。
ひとつはおいらの無責任な一言「またすぐ会えますよ」。
今書いて、この文字列を見るだけで自分を滅多打ちにしたくなる。
そしてもうひとつは
「キミがノーベル賞を取ったら記者会見で、今の自分があるのは先生のおかげです、って言いなさいw」
これは15年以上も前か、せんせーがふざけて言ったのだと思ってた。
だけどおいらが就職したとき、せんせーが自著にサインしてプレゼントしてくれて、そこには

「そのとき」が来るのを楽しみに待ってます

って書いてあったんだ。
あまり昔のことだからおいらは一瞬なんのことかわからなかったんだけど。
すこしして気づいた。
ノーベル賞は大げさにしても、
せんせーはおいらを信じてくれてるんだって。

約束。
ひとつめのはもう、だめになっちゃったけど。
ふたつめのは、まだ 手遅れではないんだ
おいらが生きている限り。
だからせんせー、高いところから見ててよ
おれ 頑張るから。

 

徒然狸 ―タヌキの日記―





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