徒然狸 -タヌキの日記-

明けぬ夜の燈明

文章の用途について

いや、ポエムじゃないんですがね。
いや、突き詰めればポエムに行きつくのかもしれないんですが・・・。
二十年来おもっていることがありまして、言葉で風景画を描けないものかと。
 
えーーーっと。。。
我々の接する文章ってのは、実用的な目的があります。
新聞記事・・・情報を明確に伝えるもの
小説・・・空想世界を疑似体験させるもの
エッセイ・・・ある人物の感性を知るためのもの
とか、です。
これらは一様にストーリー(話の流れ)を考慮して、順序立てて、起承転結を意識して組み立てられています。
ある瞬間をとらえたものではなく、一連の流れというものが必ずある。
 
一方で、風景画は、ある瞬間の、ただそこにあるものを描画している。
でも一個の人間の視点を通しているから必ずしも現実そのものを描いているわけではないので写真とも違う。
つまり、風景と同時に、その風景を見た、その瞬間の人間の感覚や感動といった情報を含んでいるのが風景画というものなんだと思っています。
 
で、これに相当する文章って、見たことがないなと思っていました。
起承転結とか気にしない、景色と、それを見たときのその人間の感覚を伝えるだけの文章。
べつにそんなもんを読みたがる人間がそうそういるとは思いません。
単純に、ぼくは風景画が好きで、でも絵は描けないから、文章で風景画を描きたいという願望があるだけです。
 
部屋にかけてあるカレンダーの、今月の絵が気に入ってまして、そこに行った気になって、風景文を書いてみました。
酔った勢いで。
 

――知らない街を歩いている。
テレビの「ぶらり旅」では行く先々に興味を惹かれるものが待っているが、真似てみるとそんなこともない。
住宅というより屋敷といったほうが近い建物は歴史を感じさせるし、日本の街並みといった感もある。
しかしそれらは自分に対しては無関心だから、どこか冷たく、角ばっても見える。
道行く人があれば、自分はたちどころによそ者として認識されるような気がした。
駅を離れ、なんとなく山のほうに歩いていた。
薄い雪の上を吹く風は弱いが冷たい。
むき出しの顔に寒さを感じる。
コンクリートの坂はいつの間にか急になっていて、それでも上ると急に目の前が開けた気がした。
山門があった。
十数段ほどだろうか、幅の広い石の階段が道の先にあり、その上には瓦葺の立派な門があった。
門は開け放たれていて中の建物が見えたから、住居ではないことは感覚的にわかった。
立ち止まる。
神社はそうでもないが、寺は果たして入っていいのかどうか、いまだによくわからない。
なんとなく日本的な空間に入ってみたいし、入ってはいけない感じもないのだが、入ってさてどうしようということもないので、やはりなんとなく入りづらい。
そんな小さな葛藤が、静かな景色に吸われていく。
歩いてきた道と同じように、石の階段も、山門の瓦も、その中に見える植木や建物も、全くおなじように薄い雪に覆われている。
雪の隙間からは石や木や瓦の暗い色がのぞいているから、モノクロの景色に紛れ込んでしまったような感覚がある。
これ以上あゆみを進めてしまうと、薄い雪には自分の足跡が残るだろう。
それは目の前の情景を壊してしまう気がして、そしてやはり、ひとけのない寺に入る足も進まず。
しばらくの間、どこか懐かしい感覚をたどっていた。

 
うるせーおいらはこういうのが読みたいんだ
徒然狸 ―タヌキの日記―
 

 

筆者は盲導犬を尊敬し、個人的に応援しています。
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